6月最後の日。日めくりカレンダーを捲る。ロウを引いた様な薄い紙を破りとると、そこに7月1日は無く、"暑中お見舞い申し上げます。"と大きく書かれていた。厚さも存在も半分くらいに薄くなる頃に、気の利いた一工夫をしたのだ。愛しくてそのままにしておきたくなる。
―2010年も半分が過ぎた、漫然と毎日を無駄にしてはいないか。あと半年、皆で目標をたてよう。皆が皆のために。会社の為に。社会の為になることを。
社長が、覇気無く檄を飛ばした。ボウフラみたいな社員を一人一人呼び出し、果て無く面談をつづける。臆病な俺は当たり障りの無い事を淡々と答え、両手を体の前で組み、はいっはいっと返事をする。蒸し暑くて仕方がない。強い夕立がくればいいのにな、と頭は考えている。

A.
私の体の中には、重たい金属の塊がある。心臓があるであろう場所の少し上、鎖骨の内側のつなぎ目から4cm程下の場所にある。おかげで重心が上半身に寄ってしまい、私の体はフラフラと安定せずにいつも揺れている。だが、一度倒れ込み、胸を床につけ安定させれば、バランスの悪さは、さしたる問題ではない。問題なのはその重さで、倒れてしまえば、再び起き上がるのには困難が伴なう。
質量はそのまま慣性となり、私が何かするのを、押し止める方向に作用する。出さなきゃいけない書類の投函や、咥えっぱなしの煙草に火をつけること、朝に行ってきますと家族に言う事、壊れた携帯の機種変更、日々の日めくりのめくり、日本橋駅での東西線への乗換、聴きあきた音楽のループ再生を解除すること、解けた靴ひもを結び直したり、あの人に言わなければならない事を伝えること、寝る前にテレビを消すことや、そもそも寝ることだとか、そして今は、プラットホームの上からの一歩。それら、生活のすべて、一日のすべてで、金属は常に、私の行動に制動をかけ続ける。私は、慣性に怯え、そして生かされ続けていると思う。浅草橋のボロ汚いホームの上でそんなことを考えて、人ごみの中ひとりフラフラと立つ。

5年ぶり位に、カメラを買いました。
一眼レフではなくて、単焦点レンズのコンパクトカメラです。

まだ使い方がよくわからず、ピンボケ写真ばかりとってます。

楽しい、のかな。

風が強くて、暖かくて、気持がよさそうなので、道路の上に寝てみる。前に寝たのは2年ほど前で、銀座通りの上だった。その前は、八王子で居候していた3年前だった思う。そしてそれより前は、よく思い出せない。神戸にいた頃に何度かは寝ているだろうが。
もっとずっと遡って中学校でのこと。美術の時間。駐車場に寝ころび、描きかけの絵に色を付けている。アスファルトが暖かくて、5月の風が強く吹いていて、とてもとても気分がよかった。誰でも、何かしら幸せの具体例を持っているだろうと思う。自分にとっては、あの時のアスファルトの温度がそれだと思っている。だからって、路上にいつまでもいるわけじゃないけど。

ちょっと前

一昨年に江戸川区の小さな街に越してきた日以来、久方ぶりに東京の雪に降られた。今は毎朝の電車通勤にも慣れて、少しだけ早く家を出て満員の総武緩行線にねじ込まれるように乗る。ドアが閉まると、いつもより駆け足気味でホームに上がったから、縦に長い乗降ドアの窓ガラスが、俺の影のように曇り始めた。隣に立つ背の低い女が、物珍しいらしい雪景色を見ようと、指を小さく使い、その曇ったガラスに覗き窓を作る。が、外気との温度差から、せっかくの雪見窓も直ぐに曇って閉じてしまう。女は次の駅に着くまで、窓が曇る傍から何度も指で線を引いた。俺は、ちょっと申し訳ないような気分になりながら、女の小さな指先を目でずっと追いかけていた。

 ようやく、中上健次さんの『枯木灘』を読み終わった。六甲道の駅を北に少し登った、小さな古書店で大学に入ったころに買い、5年ほどかけて行き戻りしながら遅鈍に読んできた。風呂に入りながら読むことが多かったために、湿気が背の糊を溶かしてしまい、その古い文庫本の頁は散り散りになってしまっている。存在を土に日に水に溶かしていく様に土方を続ける秋幸の姿が繰り返し執拗に描写され、その合間に路地と秋幸を廻る血の物語が緩慢に進んでいく。動いていないかのようで、しかしどう足掻いても押し留めることのできない重い流れの中に身をおく様な小説だった。小説が持つ速度(運動量?)が違うのだろう。『十九歳の地図』、『岬』などの初期の短編集は大学在学中に幾度となく読み返し、気がつけば手にとり、その鬱屈と激流に身を任せていたが、どうしても後期の長編を最後まで読み通すことができずにいた。その頃の私がまともに受け止めるにはあまりにも重かったのだろうと思う*1。さて、次は何を読もう、『地の果て』も『日輪の翼』も、『千年の愉楽』も、みんな実家のダンボールの中だ。帰ろうかな。

*1:成長したというわけでは決してなく、感受の帆が解れたというか、鈍ってしまったのだろう。やだねぇ。

 環境に配慮でもしたのか、多摩ニュータウンの道路は曲がりくねり、まるで造成前の等高線をなぞる様にはしっている。そのためどの交差点に立っても四方を十分に見渡すことはできない。徹夜明けの重たい体を引き摺って近くの自販機に缶コーヒーを買いに行くと、ついつい誰もいない交差点の中央に立ってしまうが、やはり、丘だとか、曲がり道だとかが目の前を塞いで、全く気の晴れる事がない。いや、むしろその視界の悪さと、自分の現状とを無意味に結びつけてしまい、全く暗澹たる気にさえなってしまう。
 『平成たぬき合戦ぽんぽこ』は日本映画における至上の作品の一つだと考えている私ではあるが、中途半端なことはせず、山をすべて平らにするか、マンションをすべて山の地下に作ればよかったのではないかと悪態をついている。